桜井 孝雄

一九六四年東京オリンピック バンタム級金メダリスト。世界バンタム級 1位。第12代OBF東洋バンタム級チャンピオン。「打たさずに打つ」リング史上屈指の技巧派アウトボクサー。アマ戦績 138勝 45KO RSC 13敗。プロ戦績 30勝 4KO 2敗 2EX。日本ボクシングの歴史を彩った名ボクサーである。

OneTwo Sports Club

HISTORY

〜1964年 学生時代

佐原一高(現佐原高)にてインターハイ バンタム級で優勝を飾る。
名門 中央大学ボクシング部に進学後も、バンタム級で優勝を飾り、東京五輪バンタム級代表に選出される事となる。


1964年 東京オリンピック 金メダル

1回戦より危なげなく勝ち上がり、準決勝に強豪ワシントン・ロドリゲス(ウルグアイ)を迎える事となる。桜井は相手のラッシュを見事に封じ決勝進出。戦う相手は鄭申朝(韓国)4度のダウンを奪いRSC勝ち、日本ボクシング界 初の金メダリストとなる。


1968年 世界バンタム級タイトルマッチ挑戦

アマチュアからプロ(三迫ジム)に転向して22連勝。
日本武道館にて桜井はライオネル・ローズに挑戦する事となる。
2Rには左ストレートで顎を捉えローズをダウンさせるも、ポイントで判定負けとなる。


1969年 東洋バンタム級 チャンピオン

ライオネル・ローズ戦の後、3勝1敗で東洋タイトルマッチに挑む事となる。
戦う相手は李元錫。2度目の対戦となるが前戦と同様に勝ちを収め、東洋チャンピオンのベルトを巻くのである。その後、2度の防衛を果たすが、現代とは違い世界タイトルマッチの挑戦権は廻って来なかった。


1996年 ワンツースポーツクラブ開設 初代会長就任

プロを引退した桜井。その後様々な事を経験した後、東京築地にワンツースポーツクラブを開き会長に就く事となる。
オフィス街の一角でプロを育てつつ、一般の人達にもボクシングの面白さを伝えて行く事となる。

PORTRAIT

桜井孝雄

戦績

1964年 東京オリンピックが開催。
長きに渡り待ち望まれ、そして長きに渡り日本ボクシング界唯一の、ゴールドメダリストが 桜井孝雄である。
昭和16年9月25日 日中戦争の最中、桜井は千葉県佐原市に生まれる。
野山をひたすら駆け周る日々を送っていた桜井だが、ボクシングと出会ったのは高校の時。戦後間もない当時のボクシング部には、まともな指導者も居らず、ほぼ独学の状態で覚える事となる。使いまわしのボクシングシューズに手作りのサンドバックを叩く毎日、それでも桜井は新人王を獲得し、全国高校総体(インターハイ)でのバンタム級 全国優勝を収める事となる。
一躍脚光を浴びた桜井、全国の強豪大学からスカウトが殺到する中、桜井が選んだのは 名門 中央大学。当時、大学選手権で4連覇中の日本一の大学である。本格的に大学でボクシングを教わり始めた桜井だが、持って生まれた勘の良さとボクシング感に磨きをかけ、アウトボクシングのスタイルを築いて行く事となる。

天性の勘

このカンという言葉だが、桜井は生涯を通じて良く口にしていた。桜井「こればかりは人に教えてどうこうなるもんじゃないんだよ」
と時にエピソードを添えて話すのである。
桜井「大学時代に後輩の試合に付き添った時があって、後輩が打たれてコーナーに帰って来るのよ。」
桜井「それで俺は後輩に」
桜井「来る前にわかんだろ!」「なんで避けないんだ!」
後輩「・・・・・・。」
ってよく言ってたんだよねと。

周囲の予想を覆し世界の頂点へ

結局桜井は中央大学の在学中にバンタム級で2連覇を果たし、代表選考会を勝ち上がり、オリンピック代表のチケットを手にしたのである。
しかし、東京オリンピックにいざ出場は果たしたものの、周囲の期待は思いの外低ったそうである。
そんな周囲の期待を知ってか知らずか、あれよあれよという間にオリンピックのトーナメントを勝ち上がってゆく桜井。準決勝で強者ロドリゲス(ウルグアイ)を接戦の末倒し、決勝へとコマを進めたのである。決勝で戦う相手は鄭申朝(韓国)後に「負ける気がしなかった」と語るよう、この試合は4度もダウンを奪い一方的な展開の末、桜井はゴールドメダルを手にするのである。
そう、この時のゴールドメダル以降48年もの間、誰一人として日本人はメダルを取る事が出来なかった。
日本ボクシング界の歴史の中で誇れる偉業の1つなのである。

プロ転向、怒濤の22連勝

ゴールドメダリストに輝いた桜井のもとへは、数々のジムから誘いが届いた。
アマチュア残留か!プロ転向か!マスコミが過熱し先走る中、過去最高額ともいえる契約金で、三迫ジムとプロ契約を結ぶのである。プロになっても桜井は強かった。
そして何よりも驚いたのは、ボクシングスタイルを変えずに強かったという事だ。
当時も現在も圧倒的に多いボクサーのスタイルは、ファイタースタイルである。お互いに足を止めバンバン拳を打ち合い殴り合う。

当然お客は盛り上がるが、同時に選手生命と引き換えながらという事となる。
頭にパンチをもらいパンチドランカーに、鼻は曲がり、瞼を何度もカットし、網膜剥離で失明のリスクをしょうのである。桜井は力でいくボクシングを嫌った。足を使い、スピードとタイミングとボクシング勘で戦い続けたのである。
打たれづに打つ。打たせずに打つ。今でこそメジャーな言葉となったが、ヒット アンド アウェーという理想的なアウトボクシングを見せ続け、22連勝。
世界タイトルの挑戦権を手にするのであった。

引退。練習生を教える日々へ

この世界タイトル戦は、唯一この試合の中で1度しかないダウンを桜井は相手から奪い、ベルトに届かなかったという、後に物議をかもす一戦となった。
その後、色々な人間達がそれぞれの立場と見解でこの一戦を語りつくしてきたが、リングの上で生命をかけて戦うボクサーという人間と、それを支え、一緒に夢を見る男達にしかわからない思いがある、そんな涙の試合であったのでは無かろうかと思うのである。

桜井はその後、東洋チャンピオンとなり2度の防衛を果たすが、世界チャンピオン以外に価値を見い出す事が出来ず、引退を決意する。

引退した後に桜井はさまざまな職業を経験し、そして中央区築地にワンツースポーツクラブを立ち上げる。圧倒的にプロ志向の強いボクシングジムが多い中、プロの選手を育てつつも、健康志向の高い一般練習生に、ボクササイズ®というボクシングを教え始めたのである。
一口で言うなれば、ボクササイズ®とボクシングは一緒である。
ジャブ、ストレート、フック、アッパー、ステップワークにコンビネーション。ジムワークのメニューもボクサーと一緒。それでも明らかに、ボクササイズ®とボクシングは別のもの、違うものなのである。どこが違うのかと言うのであれば、ボクサーという人間は明らかに普通の人間とは違い、モンスターだということ。モンスターである彼らは、一流のアスリートであり、一流のファイターなのです。
そう、アウトボクサーで当時60歳を超えた桜井もモンスターの1人。
ボクサーの練習量は驚愕であり、圧巻としか言いようがなく、過酷以外のなにものでもない。体重制限により削ぎ落とされた脂肪、戦う為にだけついた柔らかい筋肉、一般の人間達には到底真似する事すら出来ない、驚異的な身体能力を秘めた体を作り戦う、それがボクサーであり、ボクシングだからなのです。

父、桜井孝雄

桜井は現役のプロボクサーや、プロを目指す者達には当然厳しかった。
そして、同じ道を歩もうとする息子にも。
当時、息子の大佑は時を同じくして高校からボクシングを始め、明治大学のボクシング部へと進学、インターハイにも出場するようになっていた。
プロを目指したがる息子に、嬉しい気持ちと辞めてもらいたい複雑な気持ちを抱いていた桜井を記憶している。

ある日の事である...1ラウンドだけ桜井は息子の大祐とスパーリングをした事がある。
20歳の息子と齢60歳を越えた父。
息子の大佑は、インターハイに出場するレベルと、センスと若さを買われ、あちこちのジムからスパーリングパートナーとして呼ばれていた。その中には当然日本ランカーのボクサーもおり、大佑は自分が繰り出し当たるパンチに慢心していたのだ。そんな折、降って湧いた父とのスパーリング。
60歳を越えた父に、一般練習生の前で大佑はボコボコにされ、明らかに違う世界レベルのボクシングを体感し自分の身の丈を思い知らされたそうだ。

ボクシングの楽しさを皆に

桜井は、一般の練習生達には緩やかにボクシングの楽しさを教えてくれた。自分のペースでやらせ、決して無理をさせない教え方だった。一般の熱心な練習生が求めれば、惜しみなくテクニックを教えてくれ、手本を見せる際の瞬間的なプロの技に何度魅了された事かわからない。
桜井が作ったワンツースポーツクラブ。
ここは他のジムと違い、プロも一般も平等にジムが使える。申し訳ないがプロに気兼ねする事も、圧倒されて隅っこに行く必要もない。桜井のボクシングは、息子の大佑に受け継がれ、ワンツースポーツクラブの雰囲気は今も変わらない。
何十年来の会員さんが多く通い、筆者もその内の一人なのである。

桜井孝雄 1941-2012

2011年初頭に食道癌の診断を受け、後楽園ホールで医師に付き添われて試合を見守る姿を見せていたが2012年1月10日、自宅で息をひきとる。享年70歳。今なお、日本ボクシングの歴史に残した足跡は大きい。 ワンツースポーツクラブ
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